| 読売新聞 YOMISAT 中国・アジア衛星版
リレーエッセー香港
「環境」に通じる動物愛護
うちは筋金入りの愛犬家。四歳を頭に四匹のビーグルを飼っている。 素性の知れない出来合いのペットフードをやらない、蚤とりやシャンプーも自然素材で、などこだわって育てた甲斐あって、お陰様で病気一つせず、毛並みもつやつやしている。散歩させると道行く人が「好れん呀」(きれいね)と振り向き、飼い主バカとしてはつい頬がゆるむ。犬の生理に適った飼い方をすれば、寿命は本来二十年は軽いと聞くと、うちもギネスブックの長寿記録(ビーグル三十三歳)に挑戦だ、と勇んでしまうおめでたさである。
当初飼うのを渋っていた夫の方が、すっかりはまってしまい、いまや捨て猫を見かける度に拾って来るほどの動物好きの有り様だ。
二匹も先住の野良が居るのに、テニス帰りに子猫を三匹まとめて、それも他人が拾った子猫を横取りして来られたのには参った。「以前犬を買い与えたら、子供が勉強に身が入らなくなってねえ、結局他所へやったのよ」と語る拾い主に、「このまま飼われても、いずれ始末される」と信念の行動に出たのだそうだ。香港では、毎年およそ六千匹の犬、五千匹の猫が、飼えなくなったから、と動物愛護協会(SPCA)に持ち込まれ、薬殺されている。クリスマス・プレゼントに子供に買い与えたものの、すぐに飽きられて、(旧正月の)暮れの大掃除にゴミと一緒に捨てられるケースも多い、と聞く。
ペットは家族の一員、はおろか、命あるもの、という認識すらなく、物扱いしているあたり、まったくもって薄ら寒い。
そんな人ばかりだとは思いたくないが、動物愛護は環境問題だ、と言うと、けっ、という顔をされることが、ままある。ゴミ問題の一環としてではない(!)。自然と接触する機会を失った都会暮しには、ペットが一番身近な「自然」なのである。
人種差別ならぬ「種差別」とでも言おうか、speciesmという言い方をするが、要するに人間中心主義のことである。自分(人間)さえよければ、と乱開発を繰り返し、生態系や生物相の多様性を破壊してしまった。環境問題の根っこのところで、私たちの人間以外の生き物を思いやる能力が問われているのである。
ひどい話だが、前世紀の科学者は動物機械説を唱え、動物は苦痛を感じない、と主張していた。そう言えば、今世紀の初頭になるまで、女性には感情こそあれ理性はない、という説が幅をきかせ、女性には選挙権だってなかったのだった。
神戸の事件を持ち出すまでもなく、凶悪犯罪をたどると必ずと言っていいほど、犯人には動物虐待癖がある。たかが犬猫と侮っていると、禍は必ずや人間に及ぶし、真っ先に犠牲になるのは弱い者と相場が決まっている。
無条件の愛を注いでくれるペットには医療効果も認められている。香港にもドクタードッグ、ドクターキャット認定システムがあり、お年寄りや知的障害児の施設を慰問しては、なかなかの成果を収めている。
それにしても、愛護団体のSPCAが、愛護の対象の大量薬殺を余儀なくさせられているというのは、なんたる矛盾であろうか。獣医をめざしていたが、そんな現実に幻滅してやめてしまった人も、私は知っている。SPCA会員ながら不満分子の夫は、ペットのサンクチュアリを作るという夢を度々口にするようになった。
夢物語に過ぎなかろう、と話半分に聞いていた動物孤児院が実在する、というか、着々とできつつあると知ったとき、私は小踊りし、ポーカーフェースの夫も興奮を隠しきれないようだった。アースケア・地球仁という環境団体のノー・キル・サンクチュアリが近く新界にオープンする。私たちも微力ながら財政面の協力を申し出た。
公団のペット禁止の徹底以来、増える一方の捨て犬・猫を、一弱小団体がどの程度収容できるかは、はなはだ心許ない。しかし、アースケアの志、私は意気に感ぜずにはおられない。たとえどんなに、けっ、とあしらわれようが、動物あっての人間、と私はしつこく主張し続けるつもりなのである。
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