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| 月間ろうきん11月号掲載
アジア新紀行「中国・香港編」
言葉における放任主義
私の香港暮らしも、早足掛け十年。
異国に嫁ぐとは言っても、里帰りにも手頃な距離だし、漢字や中華料理もしっくりきて文化的にも近い、なにより言葉の苦労が要らない、と勝手に思い込んで、さっさと荷物をまとめて来てしまったのだが、そんな私の甘い考えは直、粉微塵になってしまった。
当時はばりばりの英国の植民地である。公用語も英語、広東語を謳っている。旧植民地のマレーシアやシンガポールですらそうなのだから、住民はバイリンが当然ではないか。それなのに、婚家が住む新界のあたりでは、英語などしゃべっていた日にゃタクシーにも乗れなければ買い物も出来ない!
英語で書かせてノーベル賞作家を輩出するインドとはえらい違いである。が、嘆いても後の祭。早速講じた対策は「教育のある人と付き合う」。しかし夫の友達の医者や弁護士とテーブルを囲んでも、一言挨拶を交したら会話は広東語オンリー、内輪の話で盛り上がってしまう!
その昔バカンス村(主に仏領)に駐在していたときは、世界各国からやってきた言葉の通じないお客さんとも、身振り手振りも交えて結構楽しくやったものである。また、仲良くなったお掃除のおばさんとか給仕のおじさんは、現地人のミクロネシア人やタヒチ人、出稼ぎのモロッコ人などであったが、母国語同様巧みにフランス語を操り、陽気に話しがはずんだものだ。
あまりのギャップに私は密かに涙ぐみ、食事の途中で席を立ってはお手洗いの扉を蹴飛ばす暮らしが半年程続いた後、ついに観念した私は広東語を習い出した。いまやあんなに苦労して覚えたフランス語より上手になってしまったのだから、人生はわからない。
今になってみると、中国人が人口の95%を占め、またその多くが大陸から流入していること、英国の教育がエリート主義であったこと、また香港人のメンタリティーとして身内意識が強いこと、他所者には冷たいがいったん身内と認識するととことん暖かく接すること、などがネックだったのがわかる。教育があっても、事務英語は得意ながら、社交は考え考え英語を繰り出すのが面倒なのだ。夫にしたところで、政治経済の話しは立て板に水なのに、日常生活関連のボキャブラリーにははなはだしく欠けている。
思えば香港人と英語の関係はまっこと不思議だ。話すのはお互い広東語なのに英語で文通していたり(画数の多い漢字が面倒らしい)、会話に英単語が飛び交う(私が英単語を多用するのは単に語彙不足によるものなのだが、ほとんど違和感を抱かれずマレーシア華僑か?と問われるくらいだ)などなど。
なにより特筆すべきなのは、ろくに英語ができなくても皆に付いているジョンだのメリーだののクリスチャンネームであろう。これは幼稚園から始まる英語のクラスで、便宜上付けることを強制されるらしい。年端もゆかぬ子供はときにとんでもない名前を名乗ってしまい、長じて英語圏の人々を苦笑させることもしばしばだ。
端目にはおかしなこの習慣も、すでに香港人の血肉と化しており、夫のように「中国人が異文化の名前を戴くのはおかしい」と、ある時突然民族主義に目覚め名前を捨ててしまった者は、家族や友人に深い困惑をもたらした。皆彼をなんと呼んでいいものやらわからなくなってしまったのである。
その一方で香港文化を華と仰ぎ見、新たに大陸(中国)からやってくる新移民達が香港で真っ先にすることが、英語の名前を付けること、なのだから皮肉なものだ。
機を見るに敏な香港人が返還を睨むあたりからとりつかれた北京語熱は、実利に止まらずポップカルチャーに及び、見るもののない大陸に代わって台湾勢が席巻したのはおもしろい。香港のシンガー達も競って北京語の歌を歌い出した。
北京語が公用語に加えられた訳ではないが、学校教育も北京語重視が進み、中には英語教育がおろそかになると香港の国際金融センターとしての価値が失われるのではないか、と懸念する声もある。しかし気の利いた香港人達は誰に強制されるではなしにとっくに北京語を覚えており、そこは英語と合わせてマルチリンガルになっている。
言葉にも香港のレッセフェール(放任主義)はしたたかに生きていると言えよう。
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