| 読売新聞 YOMISAT 中国・アジア衛星版
リレーエッセー香港
1998年11月25日掲載
「大気汚染」解決に望み
九月末、大気汚染指数が二日間連続して一〇〇を超えると、香港もいよいよ世界一 空気が悪いメキシコシティー並みになったかと、大騒ぎになった。
「指数一〇〇以上」は、循環・呼吸器系に問題を抱える人は外出を控えるように、 との警報を意味する。銅鑼湾の日系デパート前の観測点では最高値一六七を記録した
ばかり。
二〇〇以上になると健康な人も外に出るなというのだから事態は深刻である。
人口六百万余の香港では、毎年七十-九十人(三分の二が五-三十五歳以下)が喘息 の発作で亡くなっており、一説によると大気汚染がもとで早死にする人は二千人にの
ぼるとか。
香港の空気はなにも一朝一夕に悪くなったわけではない。ビルのてっぺんについて いた観測器を、市民の囂々たる非難におされる形で地上に設置し、やっと数字が市民
の実感に近づいただけのことである。
十一年も前、私が香港に移り住んで最初に吸った旧カイタック(啓徳)空港の空気 からして臭かった。ハイウエイを使って遠距離通勤する七年間に、黒煙をまき散らし
て疾走するトラックはめざましく増え、かといって外気を取り込まないと一家乗り合 いの車内は酸欠状態になって目が回るので、やむなく排ガスにさらされる毎日。
「車道楽」の夫が日本車を個人輸入すると言い出して、運輸署に電話すると、香港 の排ガス基準は世界でもっとも厳しいカリフォルニアに準じている、と役人が威張る。
「おかしい!」と詰め寄ると、製造十年以上の車はその限りでない、と白状したものだ。
そうこうするうちに、私ばかりか、交差点では香港人まで鼻と口を覆う姿が普通に 見られるようになった。
なぜか鼻のきかない人が多い香港人にしてはよっぽどのこと、 とおののいていると、いまや子どもの喘息がひどくて、比較的空気がきれいな新界に
「転地」する家族も増えているという。
きれいな空気を守るため私たちが出来ることとして、なるべく電車やバスを利用す る、というのが定石だが、香港の大気汚染の元凶は90%までがトラック、バス、ミニ
バス、タクシーの”四羽烏”によるディーゼル燃料の排ガスである。
エンジンふかしっぱなしで陽炎(かげろう)状態になってる空気をかいくぐりミニ バスに乗り込むとき、忸怩(じくじ)たるものがある。
一般市民も黒煙を見かけたら、環境署に通報できる仕組みになっているのだが、車 検がない香港では、定期点検より捕まって罰金四百五十香港ドルを払う方が安上がり
との考え方が事業主に蔓延しており、実効は薄い。
政庁の無為無策も情けないが、議会も業界寄りで、数年前のディーゼル車を軒並み ガソリン車に転換する法案も、この春のディーゼルの税率を上げる法案もつぶしてきた。
しかし、事ここに至って、議会もさすがに慌てたのか、現在審議中の二〇〇五年ま でに全タクシーをLPG(プロパンガス)化するという香港当局案に対しては、むし
ろそれでは手ぬるいという論調が強まってきた。
去る一日には、「クリア・ジ・エア(争気行動)」という環境団体の呼びかけでデ モ行進が行われ、ガスマスクを着けた市民五百人が早期対策を訴えたのも、効を奏し
たとみえる。
先だって「継続可能な社会を建設する」というワークショップに出たが、それに先立ち、現実のケースを取り上るので予習して来るように、ともらったファックスがタ
クシーのLPG化法案をめぐるスタディーであった。
立法議員になったつもりで、ス タンド予定地の住民、区議会、タクシー運転手、環境団体の声に耳を傾け、法案に賛 成、または反対票を投じる。一も二もなく環境派の私でも、台湾の引火事故を挙げて
安全を危惧する住民や、生活を心配するタクシー運転手の声に、結構頭を抱えてしまう。
これといって答えの浮かばぬまま当日を迎えると、講師のご夫婦はなんと七○年代、 南アフリカでアパルトヘイト(人種隔離政策)撤廃に至る調停を手がけた人々であった。
極意は、思いっきり平たく言うと、互いの言い分を存分に聞き合えばそのうち双方 のニーズも浮き彫りになり、歩み寄りの気運も増す。どんな小さな事だろうとそれを
共通の基盤に対話を進めて行ける。人間誰しも理解されたいという希求を抱き、それ さえ叶えば些事(さじ)にこだわる気持ちは消える。
講師は言う。対立を恐れるな、対立は変化の前触れである、対立を認識して初めて 前進がある、と。
アパルトヘイトが解決するくらいだから、香港の大気汚染なんてお茶の子さいさい かも。世紀末とかでなにかと暗い話題にうちひしがれがちの昨今、世の中は確実によ
くなっている、と希望を新たにした。
汚い空気も人を殺すが、希望を失うと人はさっさと死んでしまうものだと思う。
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